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2012年04月20日

【新刊書紹介】岡本一志著『幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く』

新刊書紹介

岡本一志著『幸せのタネをまくと、幸せのが咲く』

1万年堂出版、平成24年(2012)3月12日、定価(本体1200円+税)

 

新聞で知りました。『幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く』という書名と、可愛らしいイラストが心惹きました。主な目次は以下の通りです。

 

一章
運命は、これから、いくらでも変えていける 「幸せな私」になる原因と結果の法則

二章
幸せのタネをまかなければ、幸せになれませんよ 幸せのタネと不幸せのタネ、どこが違うの?

三章
皆から好かれる人もなく、皆から嫌われる人もない 自分に素直になれば、自分らしく生きられる

四章
無駄な苦労は一つもない。人によって早く咲くか、遅く咲くかの違いがあるだけ あせらず、あわてず、花開くまで

五章
「誰も自分のことを分かってくれない」と皆、苦しんでいる 相手の話を親身に聞くと、喜ばれる

六章
周りの人を思いやり、親切にすれば、必ず、自分も大事にされる 自分のことばかり考えていると、独りぼっちになる

七章
あなたには、たくさんの、小さな優しさや思いやりが届けられている 支えられていることを知れば、感謝の心がわいてくる

 

なんだか、タイトルを読むだけでも元気になれそうですね。今年の春彼岸の法要(H24/3/20)で本書を紹介したところ、多くの方が興味をもってくださいました。本書では、楽に、前向きに生きるために必要な知恵、助言が多く語られています。key-word は、緑色でもって色を変えて表記されていて、すぐに分かります。その中、括弧「 」で括られているのが、お釈迦さまのことばの引用となっています。いずれも仏教の基本的な考え方を示すものであり、もちろん仏典に典拠を求めることもできるようですが、NHK「100分de名著」でも採りあげられ、皆さまもよくご存じの『法句経』に拠るものも少なくありません。以下、お釈迦さまのことばの引用としての、その key-word を列挙し、典拠となるであろう『法句経』をいくつか示し、本書の理解をより深められるよう試みてみましょう。

 

一章 運命は、これから、いくらでも変えていける

「どんな結果にも必ず原因がある。原因なしに起こる結果は一つもない」(p.17)

「まかぬタネは絶対生えないが、まいたタネは必ず生える」(p.17)

「生まれつき運がよい、悪いとは決まっていないのだよ。運命はこれからいくらでも変えていけるのだよ」(p.23)

「人生は苦なり」(p.26)

「あなたの幸せ、不幸せを決めているのは、あなたの行いなのだよ」(p.33)

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。『法句経』第165偈

「自分の行いは間違いなく自分に返ってくる。あなたの行いは、あなたを裏切らないのですよ」(p.34)

「生まれつき変らない私はない」 (p.37)

「私たちの運命は、自分の行いによっていくらでも変えていけるのだよ」(p.43)

以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。『法句経』第173偈

故・松原泰道師はこの句を次のように訳されています。「かつては 放恣なりし人も のちに深く精進せば 雲間を離れし 月のごとく 世を照らすにいたらん」(松原泰道『法句経入門』p.235)

すべては運命で既に決まっていると考える宿業説・宿命論。すべて因も縁もないとする無因無縁説(因果撥無)・偶然論。すべては神の御業(みわざ)であると受けとめる神意説。これらのいずれでもない、お釈迦さまがさとられた、縁起という考え方。「これあれば、それがあり、これが生ずるから、それが生ずる。これが滅するから、それが滅する。」(S.?.pp.28, 65 etc. 村上真完『仏教の考え方』p.63)「およそ諸法(存在の要素)は因(原因)より生ずる。それらの[諸法の]因を如来(仏)は説かれた。そしてそれらの[諸法の]滅をも[説かれた]。大沙門(=仏)はこのように説かれるのだ。」(縁起法頌。Vin. 1.p.40.『仏教の考え方』p.46)

悪因苦果・善因楽果、自業自得が「行ない」(業)についての二大原則です。ただし、悪因苦果・善因楽果も、自業自得も修正可能。原因と結果の間には、多くの縁が介在します。善い行ないの功徳は銀行での貯金、寄付のようなもの。主体的で、前向き、そして他者としての縁の存在をも考慮にいれた縁起説の素晴らしさ。

 

二章 幸せのタネをまかなければ、幸せになれませんよ

「あなたのまいたタネは、まだ、芽が出ていなくても、必ず、実を結ぶのだよ」(p.50)

「幸せになりたければ、幸せのタネまきをしなさい」(p.54)

「善因善果 悪因苦果 自因自果」(p.56)

「幸福という運命は、善い行いが生み出したものです(善因善果)。不幸という運命は、悪い行いが引き起こしたものなのです(悪因悪果)。自分の運命の全ては、自分のまいたタネが生み出したものなのですよ(自因自果)。」(p.58)

「因果の道理をあきらかに見なさい」(p.62)

「早く実を結ぶ行いもあれば、遅く実を結ぶ行いもある。まいたタネは必ず実を結ぶから、早い遅いは気にせずタネまきを心掛けなさい」(p.66)

「因だけでは結果は生じない。因と縁とが結びついて初めて結果になるのだよ」(p.70)

人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。『法句経』第117-118偈

物惜しみをする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分ちあうことをたたえない。しかし心ある人は分ちあうことを喜んで、その故に来世には幸せとなる。『法句経』第177偈

悪い行ないをなさず、善い行ないを心がける。善い行ないの始まりは、ほどこし、分かちあうことから。ほどこしは「むさぼりの雑草を取り除いて慈悲の心を養ってくださる」(高田好胤)と教えられます。

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。『法句経』第67-68偈

善き行ないと悪しき行ないの違いは何か。行ないをなした後に自ら苦しむならば、それは不正、不善のものと知られます。ある行ないをなして、心喜び、満ち足り、未来に喜悦が生じるならば、それは善事であると知られます。具体的には、不殺生、不偸盗、不邪婬等の十善業道が善であり、その逆が悪とされます。すなわち、自他を害さないことが善であり、自他を害することが悪なのです。ただし「吾が心に善しと思い、また世人のよしと思うこと、必ずしも善からず」とあり、最終的には「私心」のはからいをはなれること、その行いが、真実の幸せに導くものであるのかどうかという判断が求められます。

 

三章 皆から好かれる人もなく、皆から嫌われる人もない 自分に素直になれば、自分らしく生きられる

私たちを生きづらくさせているのは見栄です。人は見栄のために、なかなか仮面を外せません。/でも自分らしく、幸せに生きるためには、あなたの顔にこびりついた仮面を外してみることが大事です。(p.79)ここでの「見栄」とは、「うわべを飾ること。体裁をつくろうこと」という文字通りの意味の他に、執着・こだわりという仏教的な意味も含んでいるのでしょう。

「皆にてほむる人はなく、皆にてそしる人はなし」(p.86)

ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。『法句経』第228偈

世の人の非難や称賛には限りがありません。一方的に非難されるだけの人も、一方的に称賛されるだけの人も、ありえないでしょう。人のうわさも七十五日といいます。一休宗純(1394?1481)は次のように表現されています。「今日ほめて、明日悪く言う人の口、泣くも笑うもウソの世の中」(p.82)

一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。『法句経』第81偈

真実を知る者によって非難される者が「非難される者」であり、真実を知る者によって称賛される者こそ「称賛される者」なのです。

神々は功徳をほめたたえる。正しい行ないをなす人は、この世で非難されることがなく、また死後には天にあって楽しむ。
徳行をそなえ、法にしたがって生き、恥を知り、真実を語り、自分のなすべきことを行なう人を、世人は好ましいと見なす。『感興のことば』(Udanavarga)V. 23-24.


四章 無駄な苦労は一つもない。人によって早く咲くか、遅く咲くかの違いがあるだけ

「まいたタネは必ず生えるのだよ。だから、無駄になる苦労は一つもないのだよ。人によって早く咲くか、遅く咲くかの違いがあるだけだよ」(p.123-124)

まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の報いが熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。『法句経』第119-200偈

悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。『法句経』第71偈

行ないとその果報には時間差があります。結果が間髪を入れずに生じる場合もありますが、一週間後、一か月後、一年後、あるいは次の世にと、原因と結果とには時間的隔たりがある場合が多いのです。ただし「因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる」(『正法眼蔵』「深信因果」)とあるように、因果の道理をよくよく心得、おろそかにしてはいけません。

 

五章  「誰も自分のことを分かってくれない」と皆、苦しんでいる

私たちはだれでも「自分のことを分かってもらいたい」という強い欲求があります。だから、「相手の話をよく聞く」、「相手の気持ちを思いやって聞く」ということにも充分心掛ける必要があるのです。本章では、必ずしもお釈迦さまのことばが引用されているわけではありませんが、周りの人に「自分のことを分かってもらいたい」と願うことよりも、まずは自ら自身の行ないを振り返ってみることが大事であることを教えるお釈迦さまのことばをご紹介しましょう。

他人の過失をみることなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。『法句経』第50偈

自分のすがたは自分では見ることはできず、自分の心すら、自分ではよく分からないところが多くあります。ですから、相手に自分のことを分かってもらえなくとも、それほど悩む必要はないのではないでしょうか。まずは自分自身を知り、自らを素直に、そして正しく表現することに努めましょう。

 

六章 周りの人を思いやり、親切にすれば、必ず、自分も大事にされる

荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。『法句経』第113偈

「思いやりの気持ちを持って、お金や物、笑顔や優しい言葉など、ちょっとしたことでもいいので、あなたができることを与えてみなさい。」(p.166)

思いやりの心や優しさで接すれば、相手からも思いやりや優しさが返ってきます。このことを心理学では「返報性の原理」というのだそうです。

「自分のことしか考えていない人は必ず、独りぼっちになってしまうのだよ。だから、周りの人の幸せを思いやりなさい。そうすればあなたの心は満たされるのだよ。」(p.171)

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。『法句経』第5偈

「人を思いやり、優しくすることは、相手を生かすだけでなく、自分も明るくまっすぐ生かす、幸せのタネまきなのだよ。」(p.173)

人と人とのお付き合いは、金子みすゞさんの「こだま」のように、心と心の響きあいにもたとえられます。

数多き煩悩のうち、根本的なものは貪欲・瞋恚・愚癡の三つであり、それを「三毒」といいます。すなわち、むさぼり、いかり、おろかさです。好ましい対象に対して働く激しい欲求が貪欲であり、瞋恚は、好ましくない対象に対する反感・嫌悪の心作用をいいます。いずれも、ものごとの道理を正しく理解していないこと、無知である愚癡が根底にあることが指摘されます。したがって、

「私たちが腹を立てるのは、相手が間違ったことをしたからではなくて、自分の欲求が満たされなかったり、妨げられたりするからなのだよ」(p.192)

と教えられるのです。

「親切をした相手にお礼や見返りの請求書を突きつけなくても、必ずまいたタネまきは巡り巡って、あなたのところに返ってくるのだよ」(p.202)

人に何かをプレゼントする時や、親切にする時は、「私が」「誰々に」「何々を」、この三つを忘れるように心掛けなさいと教えられます。(p.202)そうでなければ、「のに」の施与となってしまい、何々してあげたのに、という思いが残り、かえって自分を苦しめます。

 

七章 あなたは、たくさんの、小さな優しさや思いやりが届けられている

感謝ができないのは、そもそも自分が受けている「おかげ」を知らないから(p.214)、自分が(身近な人をはじめとして、周りの多くの人たちに)支えられていることに気づかないから(p.216)、とは至言ではないでしょうか。だから仏教では、恩を知ること、自分が支えられていることを知るという「知恩」を大切にします。知恩は、「ありがたいな」「うれしいな」という感謝の気持ちである「感恩」を生じ、その人のためになれるよう頑張ろうとする「報恩」として働きます。

私たちが等しく「おかげ」を受けているものとして、父母(家庭)、衆生(社会)、王(政治・国家)、三宝(宗教)の四恩(『心地観経』)がよく知られていますが、本章では、敬い、親切にすべき相手として、敬田(敬うに値する仏法僧など)、悲田(救済すべき困窮・孤独な者)、恩田(父母や師など、恩を受けている人)の三福田が挙げられています。

お釈迦さまは愛すべき人を有することをいとわれましたが(v.210-213)、私たちの多くは家族を持ち、配偶者と一緒に暮らしています。「どうして好きで一緒になったのに、しばらくすると一緒にいるのが退屈になったり、苦痛になったりするのでしょうか。(p.228)」 ただし「遅いか早いかの違いはあるものの、やがて別れがやってきます。(p.230)」「生涯で二人が一緒に過せる時間は、あとどれだけなのでしょうか。」「限りがある」ということが分かれば、自然と相手を大切にできるはずです。(p.230)

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々であれば、争いはしずまる。『法句経』第6偈

これは必ずしも家庭や社会での人間関係をいっているものではありませんが、まさしく国と国との争いごとを解消しようとするさい、考えられなければならないことがらではないでしょうか。

 

【付録】賢老の勧め

頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば、「空しく老いぼれた人」と言われる。
誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこな)わず、つつしみあり、自らととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。『法句経』第260-261偈

老いた日に至るまで戒(いまし)めをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。『法句経』第333偈

仏教を学び、自らの人生を正しく生きることは、とても楽しいことなのです(cf. 『法句経』第194偈)。年老いて、たとえ病にあったとしても、こころの無限なる向上をおこたらず、常に健康でありたいものです。

良海(2012/4/2)

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