[第5号 2012/02/28] 実践としての般若波羅蜜多

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[INDEX] 実践としての般若波羅蜜多

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【1】般若波羅蜜多

【2】智慧の完成という実践

【3】未完成の完成と完成された未完成

【4】智慧は磨くもの

【5】付録『般若心経』の現代語訳

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[1]:般若波羅蜜多

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第2号において、般若心経におけるキーワードが空であり、般若波羅蜜多

であることを指摘しました。

今回は般若波羅蜜多について、実践という視点から少々考えてみます。

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[2]:智慧の完成という実践

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般若波羅蜜多(prajna-paramita プラジュニャー・パーラミター)

は、智慧の完成(Perfection of Wisdom)とも翻訳されるのですが、

『般若心経』に「観自在菩薩、深き般若波羅蜜多を行じし時」、

「菩提薩タは般若波羅蜜多に依るが故に」、「三世諸仏も般若波羅蜜多に

依るが故に」とあるように、「智慧という完成」という意味でありながら、

菩薩が実践すべき、依拠すべき修行に対する名称として用いられているのです。

すなわち「智慧の完成」と名づけられる実践が般若波羅蜜多である、という

こと。

実践とは実践をいうのであって、まだ完成には至っていないですが、「完成」

という名で呼ばれているところに面白さがある、大乗仏教の修行としての

意味があるのです。

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[3]:未完成の完成と完成された未完成

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菩薩の実践が「般若波羅蜜多」と名づけられていることには、二つの意味が

指摘できるようです。まず一つには実践、実践の途中でありながら、すでに

完成すべき仏の智慧が姿をあらわしているということ。

極端にいえば、般若波羅蜜多の実践を決意し、開始した瞬間から、仏の智慧が

授けられることになるのです。

それは未だ一部分であり、未完成、プチではありますが、不完全ではないのです。

たとえば、一つの細胞の中にも、個体全体を形成する生命情報(DNA)がおさめ

られているように。

そして二つには、菩薩の実践には、これで完成したということがないということ。

しかし、さとりを開いた者にとっては完成された未完成ともいうべきであり、

それが完成の域に達した実践、まさしく「般若波羅蜜多」の名に相応しい実践

なのです。

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[4]:智慧は磨くもの

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般若波羅蜜多を実践するうえで、『般若心経』を声を出してお唱えすることが

大切です。そして空なる智慧を身につける。

「知識は吸収するもの、智慧は磨くもの」とはよく耳にいたします。

そして吸収した「知識を磨いて磨いて磨きぬいた上で出てくるのが智慧で」あり、

「その完成が般若波羅蜜多で」あるというのです(高田好胤「波羅蜜の行」)。

私にとって仏教を学び、お経を学習することが知識を吸収することであると

すれば、それを皆さまに読んでいただけるよう少しずつ文章にしていくことが

学びえた知識を磨いていくことになるのかなと考えます。

したがって、般若波羅蜜多を実践するとは、それぞれの人生の歩みの中で

学んだことがらを、他者のお役に立てるよう努めることといえるのかも知れません。

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[5]:付録・『般若心経』の現代語訳

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『般若心経』についての講義も今回で5回目となります。

計10回を予定していますが、次回は肝心要の「空」について考えてみたいと

思っています。

以下付録として、私が最も信頼する『般若心経』の現代語訳の一つ、

立川武蔵先生によるそれを紹介いたします。

 

『般若心経』(サンスクリット・小本)の和訳

 

全知者に敬礼。

深い般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じていた観自在菩薩が見ぬいた。

「五つの構成要素(五蘊)が存在する。それらは自体(自性)が空である」

と見ぬいたのである。/〔観自在菩薩がシャーリプトラ(舎利子)にいう。〕/

「この世では、シャーリプトラよ、色(いろ・かたちあるもの)は空性であり、

空性は色である。色は空性に異ならない、空性は色に異ならない。色である

ものは空性であり、空性であるものは色である。受(感受)、想(初期観念)、

行(精神的慣性)、識(認識)も同様である」と。/

〔観自在菩薩が続ける。〕/「この世では、シャーリプトラよ、すべてのもの(法)

は空性を特質としている。それらは生ずることなく、滅することなく、垢のついた

ものでもなく、浄なるものでもなく、不足なのでもなく、満ちているのでもない。

それゆえに、シャーリプトラよ、空においては色なく、受なく、想なく、行なく、

識もなく、眼も耳も鼻も舌も意もなく、色も声も香も味も触も法なく、眼界から

意識界に至るまでもない。無明もなく、また無明の尽きることもない。ないし老も

死もなく、老と死の尽きることもない。苦も集も滅も道もなく、智もなく、得もない。

それゆえに、得がないゆえに、また、菩薩の般若波羅蜜多に依るがゆえに、

心を覆われることがない。心が覆うものがないゆえに、恐れがなく、顛倒した

心を離れて涅槃に入っている。三世(過去・現在・未来)のすべての仏たちは

般若波羅蜜多に依って無上の正しい悟りを得られた。それゆえに知るべきである。

般若波羅蜜多の大いなる真言は、大いなる知の真言、無上の真言、比すべき

ものなき真言で、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りではないゆえに

真実の言葉である。/般若波羅蜜多を意味する真言が説かれている。

すなわち、/行きたるもの(般若波羅蜜多)よ。行きたるものよ。/彼岸に行き

たるものよ。彼岸に行き着いたものよ。悟りよ。/幸あれ」と。/以上で

『般若波羅蜜多の心』を終わる。

 

(立川武蔵『般若心経の新しい読み方』春秋社、2001年)

(注)/は本文での改行を表す。

 

(執筆担当者 良海)

 

2012年02月14日

[号外 2012/02/14] その一

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[INDEX] その一

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【1】さとりとは何か、とのご質問

【2】迷を大悟するは諸仏なり

【3】個性あるさとりを開く

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[1]:さとりとは何か、とのご質問

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過日、釈迦寺稲毛(JR稲毛駅すぐ)にて「釈迦寺こころの会」があり、

その中で「さとりとは何ですか」というご質問をお受けしました。

根本的な問題で、必ずしも答えはひとつではなく、皆さま方が各自お考え

になっていただきたい課題であることをお断りしたうえで、「無我の獲得

(自我の殻がやぶられること)」であるとお答えいたしました。

自分と他者の隔て(差・さ)が取り(とり)除かれること(智慧)、

他者の存在が愛(いと)おしく受けとめられること(慈悲)、という

意味を込めての「無我」(何ものにも執(と)らわれないこと)です。

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[2]:迷を大悟するは諸仏なり

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いま私は以下に紹介する、道元・承陽大師のことばを思いだしています。

「さとり」を求める、証するうえで、きわめて大切な見方であると考え

ますので、お知らせいたします。

「迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり」

(『正法眼蔵』「現成公案」より)

仏さまとは、苦しみ、争いのこの境遇をしっかりと見きわめ、その原因を

取り除くことで、迷いから目覚めたお方であるということ。一方私たち、

衆生(ここでの「衆生」とは、迷えるものという意味合い)は、さとりを

求めながらも、それが分からず、悩んでいる者。

なぜなら、自らの迷いの足もとがおろそかになったまま、さとりを求め

ようとしているのですから。

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[3]:個性あるさとりを開く

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このような見解は、一般論的な、普遍的な見方であり、さとりを証するうえで、

忘れてはならない姿勢であると、考えられます。

その上で、私たちは、それぞれ個性あるさとりを開くべきなのです。

では、私たちはいま何に悩み、悲しみ、苦しんでいるのか。いまさいわいに

自ら自身には悩み、悲しみ、苦しみがないとすれば、これからいかに生きていく

べきなのか、他者に対して何かできることはないかを考えてください。

 

(執筆担当者・良海)

第一席は小林玉明住職による、「被災地を訪ねて」と題してお話をいただきました。
被災地を訪問し、被災に遭われた方々への鎮魂と平安を祈ろうと現地に立った時、その状況の悲惨さを目の当たりにし、何処へ向かって祈ればよいのか目標を見失ってしまいました。
その時、遥か遠くにお地蔵さんが立っているのを見いだし、そのお地蔵さんに向かって祈ろうと近寄った時、なんとそれはお地蔵さんではなく、赤い布が巻きついた「立ち木」だったのです・・・。
現場の混乱と、被災地に立った時の篤い思いを、映像を示しながら感動の法話をされました。

第二席目は、今回から取り上げました仏教伝道協会発行の「仏教聖典」の読誦を参加者全員で声を合わせて音読いたしました。
多くの参加者から、感動の声、「仏教聖典」に出会った喜びの声をいただきました。

第三席目は、お馴染み 教学課 ?田良海先生の「仏教聖典」の解説でした。
内容豊富なお話で、参加者はとても満足していました。
参加者の皆様から、「“仏教聖典”に出会ってうれしい!」「初めてしっかりした読誦をした。」「とても勉強になり心が休まります!」 「次回の釈迦寺こころの会にも絶対出席します!」 など、感謝と喜びの声が多く聞かれました。

次回、皆様もぜひご参加下さい。お待ちいたしております。 合掌

第11回「釈迦寺こころの会」1
第11回「釈迦寺こころの会」2
第11回「釈迦寺こころの会」3

第11回「釈迦寺こころの会」4
第11回「釈迦寺こころの会」5
第11回「釈迦寺こころの会」6

釈迦寺こころの会

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[INDEX] 般若心経に出てくる仏教要語 その二・三世諸仏

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【1】三世諸仏(さんぜ・しょぶつ)

【2】過去七仏(かこ・しちぶつ)

【3】未来仏(みらいぶつ)

【4】三千仏(さんぜんぶつ)

【5】永遠の釈尊

【6】三世十方一切諸仏(さんぜ・じゅっぽう・いっさい・しょぶつ)

【7】仏さまとの出会い

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[1]:三世諸仏

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前回のメルマガの付録に「三世諸仏」とは、過去の仏、未来の仏、

そして現在の仏、すべての仏という意味であることを指摘し、

それではお釈迦さまは過去・未来・現在のいずれの仏さまなのでしょうか、

という問いかけを行いました。

そしてその答えは近日中にと記しておきましたが、いまだ返答できない

ままとなっています。

ご迷惑をお掛けしましたことお詫び申し上げ、ここでその解答を考えて

みることにいたします。

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[2]:過去七仏

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お釈迦さまについて、まず指摘されるべきは、インド・ネパールに生まれ

られた、人類の知的遺産としての偉大な人物であるということです。

したがってお釈迦さま(釈尊)は、すでに入滅(にゅうめつ)された過去の

仏さまで、その生存年代は、こんにちの日本では、前463?前383頃と紹介

されることが通例です。

また、お釈迦さまご自身は、自らがさとる以前にも複数の仏たちがいた、

という考え方を持っておられたようです。

これは、お釈迦さまの悟った縁起(えんぎ)の真理が過去の諸仏によっても

悟られていた永遠の理法(りほう)である(「如来方が[この世に]出ようと、

如来方が出まいと、この[縁起の法]は諸法の法性として存在する」)という

ことを意味しています。

さとりとは、もちろん発明ではなく、発見、気付き、目覚めであるという

ことですね。

お釈迦さま(釈迦牟尼仏)とそれ以前に出現した六仏を総称して「過去七仏」

といいます。そのお名前は以下の通りです。

(1)毘婆尸(びばし)、(2) 尸棄(しき)、(3) 毘舎浮(びしゃぶ)、

(4) 拘留孫(くるそん)、(5) 拘那含(くなごん)、(6) 迦葉(かしょう)、そして、

われらが(7)釈迦牟尼(しゃかむに)です。

このようにお釈迦さまは過去の仏さまですが、私たちにとっては最も身近な、

直近の仏さまなのです。

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[3]:未来仏

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仏さまの存在が過去にさかのぼれるとすると、未来にも仏さまの出現が

期待されるのが、ものの道理です。

釈尊に次いで誕生するとされる仏さまの名は「弥勒(みろく)」といいます。

弥勒如来の出現はいまから56億7千万年後とされています。その計算方法は

次のようなものです。

弥勒菩薩はいま欲界(よっかい)第四天の覩史多(とした)天の内院に住んで

います。天界は人間界よりも時間の経過が緩やかなようで、人間界の400年

が覩史多天での1日とされます。したがって、400年×360=144,000年。

さらに覩史多天での弥勒菩薩の寿命が4,000歳であるので、

144,000年×4,000=576,000,000年(5億6700万年)となるのです。

あらっ、56億7千万年とは一桁間違ってしまったのでしょうか。

ご存じの方はお知らせください。

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[4]:三千仏

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もう少し大きな枠組みで仏さまの系譜を捉える考え方もあります。

それは過去荘厳劫(しょうごんこう)の人中尊(にんちゅうそん)仏から

金剛王(こんごうおう)仏にいたる千仏、現在賢劫(けんごう)の拘那含仏から

楼至(ろうし)仏にいたる千仏、未来星宿劫(しょうしゅくこう)の

竜威(りゅうい)仏から威厳(いごん)仏にいたる千仏として、三千仏を数える

仕方です。

各寺院では十二月になると、一年間の懺悔(ざんげ)滅罪(めつざい)を願って、

三千仏のお名前を一仏、一仏お唱えしながら、五体投地(ごたいとうち)という

礼拝を行う「仏名会」(ぶつみょうえ)という法会が行われます。

私たちも、毎年、大津の石山寺での仏名会に参加させていただいております。

この考え方では、お釈迦さまは過去の仏に属するのではなく、過去七仏の

第五番目の拘那含仏が現在賢劫の第一番目の仏に登場しているのですから、

お釈迦さまも、その次の弥勒さまもともに、現在賢劫の仏さまのひとりと

なるのです。

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[5]:永遠の釈尊

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お釈迦さまは、かつて人間として八十歳のご生涯を送られました。

このような歴史的な見方に対して、お釈迦さまを永遠の仏さまとする、

いわば宗教的な捉え方が『法華経(ほけきょう)』にあります。

それによれば、お釈迦さまは現在も活動されており、信仰篤き者は釈尊に

見(まみ)えることができると語られています。

姿は見えなくとも、お釈迦さまはいまも生き続けている。このような見方は、

私たちに真実の仏とは何かを考えさせるのに充分です。

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[6]:三世十方一切諸仏

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お釈迦さま、過去の諸仏、未来の諸仏と時間的に多くの仏さまの存在が

知られますが、空間的な多仏思想も大乗仏教になって誕生しました。

すなわち、西方・極楽浄土(ごくらく・じょうど)の阿弥陀(あみだ)仏、

東方・浄瑠璃光土(じょうるりこうど)の薬師如来(やくしにょらい)などが

その代表であり、東西南北の四方に、四惟(しい. 四隅のこと)、上下を

加えた十方には、たとえば夜空に輝く星のように、数多くの仏さまが、

それぞれの国土においていま現在も説法、活動していると考えられるように

なりました。

またこれら多くの仏国土からはすぐれた菩薩が派遣され、私たちの住む

この娑婆世界において救済活動を行っているとの信仰もあり、加えて、

将来さとりを開き、自らの仏国土を建立するために、この娑婆世界において

菩薩行を行っている無名の菩薩方も多くいるはずです。

このような考え方を「三世十方一切諸仏」と表現します。

このように私たちは、多くの仏さま、菩薩さまに囲まれて、今を生きて

いるのです。

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[7]:仏さまとの出会い

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お釈迦さまは過去・未来・現在のいずれの仏さまなのでしょうか、という

問いの返答として、期せずして、長い解答例となってしまいました。

私たちは、お釈迦さまをはじめ、仏さま、菩薩さまの存在を身近に感じながら

生活することができます。

仏さま、菩薩さまとの出会いは、日々お付き合いするお人との触れ合を通して、

自らの心に生じるのです。

それは私にとっては、自らをしかり、反省を促がす場合がほとんどですが、

それによって自らの心根が浄化されていくのが感じられ、日々の喜びと

なっているのです。

(高田良海)

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