[第9号 2012/06/29] 般若波羅蜜多呪
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2012年06月29日
[第9号 2012/06/29] 般若波羅蜜多呪
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[INDEX] 般若波羅蜜多呪
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【0】くわばら、くわばら
【1】「呪」は真実のことば
【2】般若波羅蜜多の呪の効用
【3】『般若心経』の「心」の意味
【4】呪・真言は翻訳しないもの
【5】大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪
【6】呪のとなえ方とその機能
【7】心経読誦・写書の勧め
【8】次回の予告
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> [0]:くわばら、くわばら
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先日台風4号が和歌山県南部に上陸し、日本各地に甚大な被害をもたらした。
最近、自然災害が増えているのではないかと危惧している。
その原因のひとつには、私たち人間の生活態度が指摘されるであろう。
こわいのは自然災害ではなく、自分勝手な人間の存在なのである。
くわばら、くわばら。
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> [1]:「呪」は真実のことば
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今回は経末の「般若波羅蜜多呪」についてご説明いたします。
お経では、「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪なり。
これ大明呪なり。これ無上呪なり。これ無等等呪なり。
よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち呪を説いて曰く。羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」とあります。
写経では「呪」よりも「咒」の方を用いるのがやや多いようです。
辞書には「咒」は「呪」の俗字とあります。
さて「呪」は「呪文」という熟語で「まじない、のろいの文句」として用いられますが、
ここでは「真実のことば」としてご理解ください。
呪は、私たちの心を動かすに足る神秘的な力を有しています。まわりの人々、
自然界にも好ましい影響を与えます。
たとえば、うそ・いつわりのない「あなたを愛しています」ということばは
一種の呪であり、相手の心に感動を生じさせ、自らをもまた幸せにします。
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> [2]:般若波羅蜜多の呪の効用
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般若波羅蜜多の呪の効用は「能除一切苦」と示されています。
経のはじめの「度一切苦厄」は、それを受けてのものなのです。
「度一切苦厄」はサンスクリット本にはなく、漢訳者が補った可能性があります。
般若波羅蜜多の呪を繰り返しとなえることは、般若波羅蜜多の実践にも相等する
ものなのです。般若波羅蜜多の実践に依り、阿耨多羅三藐三菩提が獲得されます。
したがって、般若波羅蜜多の呪は、苦厄を払うだけでなく、無上正等覚へと私たちを
導く効力を発揮するのです。
その意味において、般若波羅蜜多の呪はまさしく「真実不虚」であるといわれるのです。
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> [3]:『般若心経』の「心」の意味
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『般若心経』の「心」は、原語であるhrdayaからいえば、mind(精神)ではなく、
heart(心臓)としての心(むね、むねのうち)を意味しています。
したがって、『般若心経』は、十六会・六百巻から成る『大般若経』の核心(essence神髄)
であるとしばしば説明されます。
しかしhrdayaは「心真言」と訳される場合があるように、経末の呪を指していると
理解するのが妥当なのです。「心真言」の用例は、密教のお経に用いられます。
さらには『般若心経』全体を「心呪」として理解することも可能であり、
『般若心経』は、般若波羅蜜多の実践である空性の智の内容を説く教理的な
お経であると同時に、たとえその内容が十分に理解されていないとしても、
繰り返しとなえることを要求し、読誦を通して「能除一切苦」、いわばご利益(りやく)
が期待されるお経でもあるのです。
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> [4]:呪・真言は翻訳しないもの
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「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」(gate gate paragate parasamgate bodhi svaha)
は、次のように翻訳することができます。
「行きたるもの(般若波羅蜜)よ。行きたるものよ。彼岸に行きたるものよ。
彼岸に行き着いたるものよ。悟りよ。幸いあれ」(立川武蔵訳)。
それ以外にも多くの翻訳があり、文法的には翻訳を決定することはできないようです。
ちなみに私自身は、次のように説明することを常套としています。
英語はインド・ヨーロッパ語族に属します。ですから、英語には、インド語と
類似する語がいくつかあります。決して学問的に正しいわけではありませんが、
羯諦(gate)のgaはgoです。羯諦のteはlet'sです(これはまったくのデタラメ)。
ですから、gateはlet's go(行きましょう)となります。
波羅羯諦のparaは波羅蜜多と同じで、むこう岸、さとりの彼岸。ですから、迷いを超えて、
さとり、涅槃の境地へ行きましょう。
波羅僧羯諦のsamは英語のsum(合計,総計)に似て、一緒に、完全にですから、
一緒に手を取ってさとりへと向かいましょう、です。
菩提(bodhi)はさとり、ほとけの智慧のこと。そして薩婆訶(svaha)はいわばgood luck
であり、幸運・成功を祈ることばで、幸いあれと理解すればいいでしょう。
このようにお話して、呪の意味をお伝えしています。
ただし、呪は私たちの理解・思議を超えた、不可思議なほとけの秘密語であり、
幾重にも理解を深めることが可能なことばなのです。したがって、玄奘三蔵であっても、
呪は漢文に訳さず、インド語の音・響きをそのままに漢字に写したのでした。
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> [5]:大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪
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お経では「般若波羅蜜多はこれ大神呪なり。これ大明呪なり。これ無上呪なり。
これ無等等呪なり」と繰り返えし、般若波羅蜜多、あるいはサンスクリット本では
般若波羅蜜多の呪がたたえられています。
類似表現を繰り返すことは、理解を深め、強調としても効果的で、仏典では
しばしば見いだせます。
たとえば、苦の類似表現として、愁・悲・苦・憂・悩があります。弘法大師は
『般若心経』は「大般若菩薩の大心真言・三摩地法門なり」(自内証の教え)
として、七宗の行果(仏教全宗派の実践と成果)すべてを説き、顕密の法教
(顕教と密教の二つの教え)をともに含むものであると理解されています。
そこで弘法大師は、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪の四つの表現を順次声聞、
縁覚、諸大乗、真言にあてて、深まりゆく修行の階梯を意識して解釈する仕方を
提示しています。
詳しくは、松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く』、竹村牧男『般若心経を読みとく』
などをご参照ください。
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> [6]:呪のとなえ方とその機能
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呪は、シチュエーションが調わなければ、充分な効果を発揮しないのでは
ないでしょうか。
たとえば、先に示した「あなたを愛しています」は、ことばは同じでも、
ひとりで口にしてもだめでしょう。それは相手を要求することばなのです。
般若波羅蜜多の呪も仏という存在が不可欠です。おとなえするときは、仏を迎え、
香・華・灯を用意するなどの必要があるのです。さらに「あなたを愛しています」が
誓いのことばでもあるように、誓いのことばは、これを交わしたときの二人の愛情を
再現します。
般若波羅蜜多の呪も、空性の智を呼び起こし、その状態を維持する働きがあるのです。
般若波羅蜜多の呪とは、『般若心経』の教説を集約し、空性の智の状態を憶持する、
ダラニ(dharani)としての機能をも備えているのです。
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> [7]:心経読誦・写書の勧め
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以上、呪の説明を通して、心経読誦・書写の意義がはっきりしたのではないでしょうか。
お経の読誦・書写は、お経のプロパガンダ、布教・流布を目的とするものである以上に、
内容の理解を深めることはもちろん必要ですが、受持することが意図されているのです。
受持とは、教えを受持・記憶すること、お経の教えを自己のものとすることなのです。
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> [8]:次回の予告
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次回は、『般若心経』をめぐる、さまざまな問題、疑問について扱ってみたいと
思っています。ご質問があれば、釈迦寺HPのお問い合わせを通じてお寄せください。
次回で扱うこともできますので、宜しくお願いいたします。
良海(212/6/28)
2012年06月20日
第15回「釈迦寺こころの会」『仏教聖典』に関する質疑
質問(1)
「すべてのものは苦である」ということは仏教の根本思想の一つです。「苦」には、逼迫、損悩の意味が指摘されますが、その内容が生・老・病・死の四苦、さらに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦(五盛陰苦)を加えての八苦であることからも知られるように(※四苦・八苦で十二苦ではありません)、「苦」とは、ただ、苦しい、苦しみをいうのではなく、「ままならぬ」という意味でもあるのです。
そこで質問がありました。五取蘊苦は、有情(衆生。生きもの、特には人、個体存在)を形成し、「取着される色・受・想・行・識の五蘊(※羅什は「五陰」と訳す。蘊はあつまりの意、種々の種類のものを一括して聚説する意)から生ずる身心の苦悩」をいい、したがって、前七苦を総括して、生きている限り感受する苦、生存の苦をいいますが、では「生苦」の「生」の意味と、どこが違うのですか。
はい。生苦の生とは「生きること」ではなく、「生まれること」を意味します。ではなぜ「生まれること」が苦であるのかといえば、生まれなければ、老いることも、病むことも、死ぬこともありません。生ある者には、老・病・死は避けられない。ですから「生まれること」(「再生」も含めて)を「苦」と捉えられるのです。たとえば、私はこういう家庭に生まれたかった、という悩み。このように自分の「生」も「ままならぬ」ものなのです。また生苦は、生まれる苦でありますが、誕生のときに味わう、せまい産道を通りぬける苦であるとも説明される場合もあります。
質問(2)
関連で質問があります。どうぞ。「五取蘊苦」の五蘊については少し勉強しましたが、「五盛陰苦(五陰盛苦)」ということばもあります。特に「盛」とはどのような意味なのですか。
はい。中村元編著『仏教語大辞典』より「五陰盛苦」の項を参照してみましょう。そこには「盛は、五陰(筆者注。五蘊に同じ)の作用の盛んなことをいうとして、また五陰の器(筆者注。五蘊仮和合の有情・衆生)に衆苦(筆者注。多くの苦)を盛る意味であるともいう」とあります。ただし「五陰の作用の盛んなこと」とは、心身の働きが健康体であるなどという意味ではなく、煩悩の働きがであり、執着する、という意味なのです。煩悩に執着される五蘊から生ずる苦という意味です。このように考えれば、「五取蘊」の意味とも通じるのです。五取蘊とは有漏(うろ。有染ともいい、煩悩があること)である五蘊をいい、取とは煩悩の異名なのですから。
質問(3)
無常(つねならず)、苦(ままならぬ)、無我(われ・わがものならず)については、少し理解できるようになりました。そして本日はその根底に縁起・縁起生(さまざまな因縁によって結果として作りなされたもの)という考え方もあることも学ぶことができました。ありがとうございます。そこで質問です。無常、無我がものごとのありのままの姿であることはよく分かるような気がしますが、しかし『般若心経』等にある「不生・不滅」等が、ものごとの真実の姿・空なることであるとしても、無常と矛盾するようにも受けとめてしまうのです。どのように理解すればいいのでしょうか。
はい。無常、無我も、不生・不滅等のいずれも縁起・縁起生であることを根拠にしています。たとえば次のように説明することができます。「不生」とは不生の生をいうのであり、不滅とは不滅の滅をいうのです、と。空であるから、実体として生ずること、生じたものではなく、さまざまな因縁によって生じたものであるということ。不滅の場合も同じ。生じては滅する、生滅を繰り返すに過ぎないもの・こと、そのありさまを「不生・不滅」と表現しているのです。最も大雑把な説明をすれば、私は52年前に生まれました。そしてあと何十年もしないうちに私という存在は死をむかえる。ただそれだけのこと。だけど大切な生、心無ケイ礙の心根でもって生き、お人に役立ちたい。
質問(4)
煩悩と菩提、迷いとさとりについて「迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない」とありましたが、いまいちよく分からないのですが。はい。それを説明するたとえとして、汚泥に生じる蓮華が指摘されるのです。もういちど、本文をご覧ください。(和英対照本p.125, ll.1-3)本文は『維摩経』の一節に基づいたものです。
また「煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない」ともありますが、どのように受けとめればいいのでしょうか。
はい。煩悩の代表格である、むさぼりや、いかりなどは、お馬鹿な、やっかいな心の働きなのですが、ある意味、生きるために必要な心のエネルギーではないでしょうか。自己中心的に、愚かなままに働いてしまう心が煩悩であり、負のベクトルに向いている。人の役に立つという正のベクトルに方向を変えてやれば、煩悩と呼ばれる心の働きがそのまま慈悲という仏ごころになるのではないでしょうか。たとえば、煩悩は危険なもの(riskリスク)ですが、薬(くすり)に変えることができるのです。だけど、そのためには、必ずものごとを正しく見る智慧が必要となりますのでご注意ください。
2012年06月18日
第15回「釈迦寺こころの会」を開催しました
前日は雨天でしたが、当日6月13日は雨も上がり幸いでありました。
第一席は、「調身、調息、調心、瞑想~心も体もリフレッシュ♪」でした。
仏教・お釈迦さまと病気のお話をまじえて、健康法のお話がありました。
両掌で胸(壇中)とお腹(中脘)に手をあてる手法や、「肝腎要(かんじんかなめ)」と言いますが、肝臓は目に通じ、腎臓は耳に通じるので、目と耳に手のひらを当てる調整法を教わりました。そのあとに呼吸に気づく瞑想を実修しました。
こうした実践を日々心がけて身心ともに健康になる。それが、「智慧」となって身につき、同じような悩みを抱えている人に教えて「慈悲」にしなさい、と教えられました。
第二席は、恒例の仏教聖典(仏教伝道協会発行)読誦。
今回は「おしえ」の第二章「人の心とありのままの姿」の部分でした。皆で声をそろえて元気よく読み上げました。
第三席は、髙田良海師による「仏教聖典」解説法話。今回朗読した箇所を紐解いてお話いただきました。
来月は、人気の高いテーマ「仏像」特集です。御由緒や御利益など、お寺参りが楽しくなること必定です!
2012年06月05日
バスツアー[横浜・総持寺参拝と精進料理の旅]に行ってまいりました
前夜の豪雨が嘘のような、清々しい参拝日和の朝となり、参拝修行中の無事と仏様に感謝の念を込めて、勤行を行い出立しました。日程は、総持寺参拝のあと、三渓園そして横浜中華街へと多忙な行程でした。
総持寺では、法話の聴講と精進料理の食事と作法を学び実践し、修行のあと境内にある石原裕次郎さんの墓前で合掌して、寺を後にしました。
寺を出てからは、親睦を兼ねて三渓園と中華街へと向かい、ひと時の休息をとりました。
総持寺は与謝野晶子の句でもあるように、彼女が中々入りがたいとの思いが、伝わりそうな本殿は厳格な面持ちです。境内全体は、観る者を魅了し圧倒させるような建造物と教えが生吹漂い、踏み入る者を躊躇させる。
寺内では僧侶が待機しており、寺内の説明しながら法話室へと案内をして頂いた。
法話は教務課責任者の僧侶がされ、「ありがとう」を題材にお話し頂きました。
「ありがとう」と、いつも言えてますか?頭で分かっていても、言えないときもありますよね!人の心は常に平静ではない、喜怒哀楽や状況等も左右され、素直に伝えることが出来ないんですね。
解決法として3つの方法をお話しされてました。
1つは、「一息の禅」、姿勢を正し、深くゆっくりと呼吸して、心を落ち着かせ、平常心を保って下さい。
2つめは、常に良い方向で物事を考えて下さい。
3つめは、ご自分達の御本尊を常に大切に思って下さい。
常に、万物に対して感謝の気持ちを忘れないで下さい。簡単にまとめさせて頂きましたが、こんな感じだったと思います。
今後は、歴史や思想を見つめ心穏やかに暮らし、自己中心の狭い世界観ではなく、私達も後世に何かを伝えなければいけないと知りました。感謝の心を持って少しづつ前に進みたい!!
2012年06月01日
[第8号 2012/06/01] 是故空中無
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[INDEX] 是故空中無
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【0】般若心経に言及される仏教教義
【1】般若心経が短いお経である、その理由
【2】五蘊と十二処と十八界
【3】十二縁起と四聖諦
【4】智と得
【5】是故空中
【6】次回の予告とお願い
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> [0]:般若心経に言及される仏教教義
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本文でも繰り返しますが、『般若心経』は、題名を含めても、わずか三百字
足らずの短いお経です。しかし、そこに説かれている内容は、その時代、
すなわち般若心経が成立した時代までの仏教の考え方が正しく踏まえられ、
そのすべてが網羅されているといってよいでしょう。
今回の本文では、仏教の最も基本的な教義である、五蘊・十二処・十八界、
十二縁起、四聖諦が言及されます。
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> [1]:般若心経が短いお経である、その理由
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『般若心経』は、題名を含めても、わずか三百字足らずの短いお経ですが、
そこには文章表現の工夫があるのです。すなわち「色不異空。空不異色。
色即是空。空即是色。受想行識亦復如是」とあるのは、きわめて凝縮された
簡潔な表現であるばかりでなく、「亦復如是」(やくぶ・にょぜ)という
語を用いて、たとえば表彰状授与に用いられる「以下同文」のように、
繰り返しの表現が省略されているからなのです。
その繰り返しをいとわず表現すれば、次のようになります。
色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
受不異空。空不異受。受即是空。空即是受。
想不異空。空不異想。想即是空。空即是想。
行不異空。空不異行。行即是空。空即是行。
識不異空。空不異識。識即是空。空即是識。
これで16×4-8の56文字分が短くなりました。
今回は「乃至」についてですが、「乃至」(ないし)も「亦復如是」と同様、
中略を指示する語です。
『般若心経』では「無眼界。乃至無意識界」「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。
亦無老死尽」と二箇所に用いられています。ご存知のお方も多いでしょうが、
まず「無眼界。乃至無意識界」で意図されているのは、いわゆる十八界であり、
その最初と最後を挙げて、中間を省略しているのです。
六根 六境 六識
眼界 色界 眼識界
耳界 声界 耳識界
鼻界 香界 鼻識界
舌界 味界 舌識界
身界 触界 身識界
意界 法界 意識界
十八界は眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の心のはたらきである六識と、
そのそれぞれの感官である、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(六内処)と、
その対象である色(いろ・かたち)・声(聴覚される音)・香・味・触
(触覚される感触。はだざわり、手ざわり)・法(意の対象。すなわち
心のあらゆる認知・思考の内容)の六境(六外処)の、十八の界(ここでの
「界」の意味は「種類」、もしくは「要素」の意)を数えあげたものです。
たとえば、眼識(見るはたらきをする心)は眼根を通して色を捉える。
内・主観に属する六識と六根、外・客観に配される六境との十八の界が、
いま・この、そして自ら自身の一切法であり、経験世界(物や他者)の
すべてなのだということです。
同じく「無無明、亦無無明尽(無明もなく、また、無明の尽くることもなし)。
乃至(ないし)無老死、亦無老死尽(老も死もなく、また、老と死の尽くることも
なし)」は、十二縁起が意図されています。繰り返しをいとわず表現すれば、
次のようになります。
1)無無明(むみょう)、亦無無明尽。2)無行(ぎょう)、亦無行尽。
3)無識(しき)、亦無識尽。4)無名色(みょうしき)、亦無名色尽。
5)無六入(ろくにゅう)、亦無六入尽。6)無触(そく)、亦無触尽。
7)無受(じゅ)、亦無受尽。8)無愛(あい)、亦無愛尽。9)無取(しゅ)、亦無取尽。
10)無有(う)、亦無有尽。11)無生(しょう)、亦無生尽。
12)無老死(ろうし)、亦無老死尽。
「乃至」の二文字で、37-2+64-2の97文字分が短くなりました。このように
文章表現に工夫を加えることで、簡潔な表現により研きがかかり、とても
お唱えし易くなっているのです。
逆にいえば、「乃至」がなければ、少々煩雑で、日本人なら読む気がしなく
なってしまうかも知れません。
ただし、『般若心経』の意味を理解し、その内容を瞑想の対象にする場合は、
略されているところを展開して、詳しく学び修めなければならないのです。
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> [2]:五蘊と十二処と十八界
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今回は「乃至」を取っ掛かりとして、いわゆる「無」のオンパレードともいう
べき「是故空中」以下「無智亦無得」までの内容を簡潔にご紹介いたします。
なおこの箇所では、「無」の字がなんと13回も繰り返されています
(サンスクリット文では18回を数えます)。
まず「(無)色、(無)受想行識」は五蘊といいます。五蘊(ごうん)とは
色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つであり、色蘊は自らの身体を含めて、
物質的なもの全般を意味し、いちいちを列挙すれば、眼・耳・鼻・舌・身の
前五根と色・声・香・味・触の前五境等となります。
識蘊は心であり、受蘊、想蘊、行蘊は、内界である心が、外界である色(物質的
なもの全般)と接触して生ずる心理的反応の三段階、あるいは代表的な心の
副次的作用を示したものなのです。
すなわち、「受」は六識を通して六根に接触し、まずそれを感受すること、
「想」は感受したものを表象すること、「行」は表象によって心が種々動機づけ
られて行為に向かうこと、と説明されます。
(櫻部建『阿含の仏教』文栄堂 2002, p.23ff.参照)
次の「(無)眼耳鼻舌身意、(無)色声香味触法」は、先にも言及した十二処であり、
ここでの意(意処、意根)には、十八界でいうところの六識も含まれています。
これら五蘊・十二処・十八界をまとめて三科(三つの分類法)といい、有為法・
無為法を含む一切法が摂し尽くされているのです。『般若心経』は、
「空の中には/空においては」(Cf.『中論』XVIII-5)何らの存在も無いことを、
五蘊・十二処・十八界をもって説いているのです。
※『中論』XVIII-5:業と煩悩の滅尽により解脱がある。業と煩悩は分別に基づいてある。
それら[諸分別]は、戯論に基づいて[ある]。しかるに、戯論は、空性が[定まる]時に
(空性において)、止滅する。
十八界よりもいっそうひろい範疇で「すべて」を言い表わした、釈尊による印象深い
説法を以下にご紹介いたします。
比丘たちよ、すべては燃えています。では、比丘たちよ、すべては燃えている
とは何か。眼は燃えています。もろもろの色は燃えています。眼識は燃えています。
眼触(眼識が眼根を通して色境に接触すること)は燃えています。
眼触を縁として生じる、楽、あるいは苦、あるいは非苦非楽という感受もまた
燃えています。何によって燃えているのか。貪の火によって、瞋の火によって、
痴の火によって燃えています。生まれによって、老いによって、死によって、
もろもろの憂いによって、もろもろの悩みによって燃えています。
耳は・・・・・鼻は・・・・・舌は・・・・・身は・・・・・意は・・・・・燃えています。このように私は説きます。
(『燃焼経』。片山一良『ブッダのことば パーリ仏典入門』p.214 参照)
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> [3]:十二縁起と四聖諦
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次いで「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽」で、「空中」に
おける無明(四諦に対する無知、根源的無知)、行(心身の潜勢力、内的衝動力)、
識(認識)、名色(心身の集合体、心身を含む認識対象)、六入(六処。眼・耳・
鼻・舌・身・意)、触(感官と対象との接触)、受(楽苦等の感受)、愛(渇愛)、
取(取著、執着)、有(生存、生きること)、生(出生)、老死の有支、すなわち
十二縁起の無、非存在が言及されます。
無明の縁によって諸の行があり、行の縁によって識があり、(・・・・・)生の縁に
よって老死があり、愁悲苦憂悩が生ずる。
無明の滅によって行の滅があり、行の滅によって識の滅があり、(・・・・・)この
ようにこの全ての苦の集合体(苦蘊)の滅がある。
(村上真完『仏教の考え方』p.64参照)
『般若心経』では、迷いにある人間の苦である生存はいかにして成り立つかという
流転門と、いかにして苦である生存を否定してさとりに至るかという還滅門のふたつの
見方から十二縁起が示されています。ただし、十二縁起で説明される苦である生存は
「空の中には」(空においては)なく、生死を繰り返す苦である生存が滅尽するという
ことも、また、ないと主張されるのです。
「(無)苦集滅道」は四聖諦であり、苦と集は迷いにある人間の生存の果(四苦八苦)
・因(渇愛)を示し、滅と道はさとりの果(苦の滅)・因(八聖道)を示しています。
したがって四聖諦とは、十二縁起を簡略化したかたちで、そして実践的な意味合いを
もって、より易しく説かれた教えなのです。
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> [4]:智と得
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「無智亦無得」の智と得については、「智は能達を挙げ、得は所証に名づく」
(『般若心経秘鍵』)とするのが妥当な解釈ではないでしょうか。
すなわち、智と得を対置させ、智を主体の能、得を客体の所である理に配す
(松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く』春秋社, 2006, p.168)という
ことです。そしてその内容については、道諦である八聖道につづく、正智と
正解脱であるとする説明(平川彰『般若心経の新解釈』p.171)、菩提と涅槃と
するもの(竹村牧男『般若心経を読みとく』p.212ff.)がある一方、智と得を
一対のものとせずに、得を非得を念頭において、心不相応行の「得」
(諸法の獲得作用。いいかえれば、属性等の取得)とするもの
(宮坂宥洪『般若心経の新世界』p.166)があります。
少し専門的な説明となってしまいましたが、「無智亦無得」は無のオンパレード
の総括としての句となっているのです。
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> [5]:智と得
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前回は「色即是空。空即是色」について、三つの解釈方法をご説明しました。
「是故空中」以下は、そこでの第二の解釈方法を述べたものであると、
私は考えています。
前回の第7号では、第二の解釈方法の例として「富士山」と「日本一の山」を
用いましたが、説明方法を工夫すれば、第一の解釈方法で用いた「こしひかり」
と「お米」でも理解可能なのです。「こしひかりはすなわち、これお米なり」
「お米はすなわち、これこしひかりなり」。おそらく、こしひかりの産地に
おいては、このふたつの言い方が正しい表現として認められるのではないでしょうか。
そこでは、こしひかりとお米には何ら差異がなく、お米とのみ呼ばれるのでしょうから。
では「こしひかりの産地」を「空」と入れ替え、「空においては」とすれば、
いかがでしょうか。空においては、色をはじめとする一切法と空とには何ら差異がなく、
すべてが空である、という直観以外には、何らいかなるものの存在も意識されない
ということになるのです。それが、前回の第一の解釈方法を含めて、この
「二つの解釈方法が『般若心経』として最も基本的な理解」であると記した根拠
なのです。
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> [6]:次回の予告とお願い
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次回は経末の真言について考えてみましょう。
その真言はどのような意味であるのか、なぜ真言が経末に説かれているのか等
について解説できればと願っています。
今回で第8回となりました。多くの方々に支援され、お追従のことばをいただき
ながらの稿を重ねることができました。
どうぞこれからもご愛読下さり、ご質問等を忌憚なくお寄せいただきますこと、
宜しくお願い申し上げます。
良海(2012/5/31)