釈迦寺メールマガジン

[号外 2012/02/14] その一

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[INDEX] その一

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【1】さとりとは何か、とのご質問

【2】迷を大悟するは諸仏なり

【3】個性あるさとりを開く

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[1]:さとりとは何か、とのご質問

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過日、釈迦寺稲毛(JR稲毛駅すぐ)にて「釈迦寺こころの会」があり、

その中で「さとりとは何ですか」というご質問をお受けしました。

根本的な問題で、必ずしも答えはひとつではなく、皆さま方が各自お考え

になっていただきたい課題であることをお断りしたうえで、「無我の獲得

(自我の殻がやぶられること)」であるとお答えいたしました。

自分と他者の隔て(差・さ)が取り(とり)除かれること(智慧)、

他者の存在が愛(いと)おしく受けとめられること(慈悲)、という

意味を込めての「無我」(何ものにも執(と)らわれないこと)です。

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[2]:迷を大悟するは諸仏なり

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いま私は以下に紹介する、道元・承陽大師のことばを思いだしています。

「さとり」を求める、証するうえで、きわめて大切な見方であると考え

ますので、お知らせいたします。

「迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり」

(『正法眼蔵』「現成公案」より)

仏さまとは、苦しみ、争いのこの境遇をしっかりと見きわめ、その原因を

取り除くことで、迷いから目覚めたお方であるということ。一方私たち、

衆生(ここでの「衆生」とは、迷えるものという意味合い)は、さとりを

求めながらも、それが分からず、悩んでいる者。

なぜなら、自らの迷いの足もとがおろそかになったまま、さとりを求め

ようとしているのですから。

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[3]:個性あるさとりを開く

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このような見解は、一般論的な、普遍的な見方であり、さとりを証するうえで、

忘れてはならない姿勢であると、考えられます。

その上で、私たちは、それぞれ個性あるさとりを開くべきなのです。

では、私たちはいま何に悩み、悲しみ、苦しんでいるのか。いまさいわいに

自ら自身には悩み、悲しみ、苦しみがないとすれば、これからいかに生きていく

べきなのか、他者に対して何かできることはないかを考えてください。

 

(執筆担当者・良海)

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