釈迦寺メールマガジン

[第6号 2012/03/28] 空(くう)

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[INDEX] 空(くう)

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【1】無・不・空

【2】無上甚深微妙法

【3】徳利のたとえ

【4】愛車のたとえ

【5】「空」は「非存在(無)」ではない

【6】宗教的体験の必要性

【7】否定的なことばづかいとしての空

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[1]:無・不・空

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260余字の『般若心経』ですが、「空」が7回、「無」が17回(「無上」

などの用例も含めれば21回)、「不」が8回でてきます。空(くう)とは、

基本的には否定的なことばづかいなのです。

ここでは空の教えについて、仏、すなわち目ざめたお方、迷いを脱した

お方の知見であるということを念頭において、考えを進めてみましょう。

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[2]:無上甚深微妙法

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仏教の教えは、根源的に、世間の流れに逆らうもの、という性格を有して

います。

成道(じょうどう)してから間もなく、説法に至るまでの釈尊の心に、

次のような考えが生じたと伝えられます。

「まことに私が証得(しょうとく)したこの真実の道理(ダルマ、法)は

深遠で見がたく、知りがたく、寂滅しており、妙勝であり、考察しがたく、

微妙(みみょう)であり、智者のみが知り得るものである。

まことにこの世間の人々は愛著(あいじゃく)を楽しみ、愛著を好み、

愛著を喜んでいる」(宮元啓一訳)云々と。

釈尊のさとりは、世の中にはとうてい受け容れられないことがらなのです。

しかし釈尊は慈悲のこころから説法を決意されました。

自らさとった真実の道理を伝えたい。釈尊は、通常の理解能力をもった

私たちにも分かるように教えを説かれたのです。

「五蘊は皆空なり」(五つの構成要素(五蘊)が存在する。

それらは自体(自性)が空である)とは深遠な教えであり、よく分からない

のですが、決して理解不可能なのではありません。

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[3]:徳利のたとえ

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空(くう)を説明する場合、たとえを用いるのが分かりやすいようです。

お酒などを入れる容器を徳利(とくり)といいますが、「徳利が空(から)だ」

という場合、どのようなことを意味しているのでしょうか。

もちろん徳利の中にお酒がないということであって、「徳利」という容器

そのものの非存在をいっているのではありません。

しかし、お酒が入っていない徳利は、はたして「徳利」という名で呼ばれる

ものなのでしょうか。

もしかすれば、花生け、一輪挿しとして用いられるかも知れません。

「色(しき)はすなわちこれ空なり」(色であるものは空性であり)とは、

色(いろ・かたちあるもの)は、本来色(しき)がそなえているべき、

自体がない、ということなのです。

「本来色がそなえているべき自体」とは、私たちが色に対してあるべき、

あるはずだと考え、期待している実体をいいます。『般若心経』は自体がない、

空(くう)なりということによって、徳利は「徳利」との名称に対応する、

実体としての<徳利>を欠いていることを私たちに教えているのです。

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[4]:愛車のたとえ

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もう一つたとえを出します。皆さまは車を運転されるでしょうか。

私は三年ほど前に買った国産の中古車を毎日のように乗っています。

新車ではなかったので、いまも、さほど「マイ・カー」という意識は

ありませんが、丁寧に運転しているつもりです。

もしこの車が新車であり、まして外国車であれば、もっと気をつかって

いるかも知れません。ことばとは不思議なものです。

「中古車」と「新車」、「国産車」と「舶来車」。

もちろん性能に違いがないわけではないのでしょうが、ことばはそれ以上の

何らかのものを私たちの意識に付加してしまうのです。

そして「私の車」と「他人の車」となれば、どちらも同じ車のはずなのですが、

私の車の方が大切。やっかいなことです。

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[5]:「空」は「非存在(無)」ではない

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空(くう)という語は、元来はからっぽ、中身のないことを意味します。

数字のゼロ(〇)もそれです。英語では、empty, emptiness と訳されます。

そうです、車のガス欠を知らせる「E」のことです。

「色(しき)はすなわちこれ空なり」とは、色は自体を欠いているという

ことを教えているのであり、色の非存在をいうのではありません。

では、先の徳利のたとえでの、<徳利>としての実体のない徳利とは、

何ものなのでしょうか。ただ空(くう)だとしか表現できません。

「空の中には、色もなく」(空においては色なく)云々といわれるのは、

そのことを伝えているのです。

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[6]:宗教的体験の必要性

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何が何だか分からなくなってきましたが、私には次の説明がすごく納得

できるようです。

「もし あなたが 目も見えず 耳を聞こえず 味わうこともできず

触覚もなかったら あなたは 自分の存在を どのように感じるでしょうか

これが「空」の感覚です」(柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』)。

本文中の「感覚」とは、直接知覚、ことばを介さない理解をいうのでしょう。

すなわち体感ということです。私も、空について昼夜問わず考察していたとき、

自分の存在が軽く感じられたり、身のまわりのすべてが明るく輝いている

ように見えたという経験があります。

修行の階梯における、小さくても大切な体験として決して忘れられません。

たとえば、大病を患った人が、健康の大切さを知るようなものなのではない

でしょうか。

空の理解を深めるためには、必ず何らかの宗教的体験が必要であり、それは、

ひとたびすべての存在を否定し去るような強力な体験であるようです。

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[7]:否定的なことばづかいとしての空

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今回は、空の原意に添いながら、その否定的な用法の局面を中心に記して

きました。

それは決して容易に理解できるものではなかったのではと心配していますが、

基本的な情報であり、大切なことがらであると私は考えています。

その後、空の思想は肯定的な意味合いを加えながら、より深められていき

ました。

次回は「色即是空 空即是色」をめぐるさまざまな解釈について紹介して

みたいと考えています。

 

【参考文献】立川武蔵「『般若心経』について」『在家仏教』2011/9

 

(執筆担当者 良海)

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