釈迦寺メールマガジン

[第8号 2012/06/01] 是故空中無

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[INDEX] 是故空中無

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【0】般若心経に言及される仏教教義

【1】般若心経が短いお経である、その理由

【2】五蘊と十二処と十八界

【3】十二縁起と四聖諦

【4】智と得

【5】是故空中

【6】次回の予告とお願い

 

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> [0]:般若心経に言及される仏教教義

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本文でも繰り返しますが、『般若心経』は、題名を含めても、わずか三百字

足らずの短いお経です。しかし、そこに説かれている内容は、その時代、

すなわち般若心経が成立した時代までの仏教の考え方が正しく踏まえられ、

そのすべてが網羅されているといってよいでしょう。

今回の本文では、仏教の最も基本的な教義である、五蘊・十二処・十八界、

十二縁起、四聖諦が言及されます。

 

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> [1]:般若心経が短いお経である、その理由

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『般若心経』は、題名を含めても、わずか三百字足らずの短いお経ですが、

そこには文章表現の工夫があるのです。すなわち「色不異空。空不異色。

色即是空。空即是色。受想行識亦復如是」とあるのは、きわめて凝縮された

簡潔な表現であるばかりでなく、「亦復如是」(やくぶ・にょぜ)という

語を用いて、たとえば表彰状授与に用いられる「以下同文」のように、

繰り返しの表現が省略されているからなのです。

その繰り返しをいとわず表現すれば、次のようになります。

 

色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。

受不異空。空不異受。受即是空。空即是受。

想不異空。空不異想。想即是空。空即是想。

行不異空。空不異行。行即是空。空即是行。

識不異空。空不異識。識即是空。空即是識。

 

これで16×4-8の56文字分が短くなりました。

今回は「乃至」についてですが、「乃至」(ないし)も「亦復如是」と同様、

中略を指示する語です。

『般若心経』では「無眼界。乃至無意識界」「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。

亦無老死尽」と二箇所に用いられています。ご存知のお方も多いでしょうが、

まず「無眼界。乃至無意識界」で意図されているのは、いわゆる十八界であり、

その最初と最後を挙げて、中間を省略しているのです。

 

六根 六境 六識

眼界 色界 眼識界

耳界 声界 耳識界

鼻界 香界 鼻識界

舌界 味界 舌識界

身界 触界 身識界

意界 法界 意識界

 

十八界は眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の心のはたらきである六識と、

そのそれぞれの感官である、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(六内処)と、

その対象である色(いろ・かたち)・声(聴覚される音)・香・味・触

(触覚される感触。はだざわり、手ざわり)・法(意の対象。すなわち

心のあらゆる認知・思考の内容)の六境(六外処)の、十八の界(ここでの

「界」の意味は「種類」、もしくは「要素」の意)を数えあげたものです。

たとえば、眼識(見るはたらきをする心)は眼根を通して色を捉える。

内・主観に属する六識と六根、外・客観に配される六境との十八の界が、

いま・この、そして自ら自身の一切法であり、経験世界(物や他者)の

すべてなのだということです。

 

同じく「無無明、亦無無明尽(無明もなく、また、無明の尽くることもなし)。

乃至(ないし)無老死、亦無老死尽(老も死もなく、また、老と死の尽くることも

なし)」は、十二縁起が意図されています。繰り返しをいとわず表現すれば、

次のようになります。

 

1)無無明(むみょう)、亦無無明尽。2)無行(ぎょう)、亦無行尽。

3)無識(しき)、亦無識尽。4)無名色(みょうしき)、亦無名色尽。

5)無六入(ろくにゅう)、亦無六入尽。6)無触(そく)、亦無触尽。

7)無受(じゅ)、亦無受尽。8)無愛(あい)、亦無愛尽。9)無取(しゅ)、亦無取尽。

10)無有(う)、亦無有尽。11)無生(しょう)、亦無生尽。

12)無老死(ろうし)、亦無老死尽。

 

「乃至」の二文字で、37-2+64-2の97文字分が短くなりました。このように

文章表現に工夫を加えることで、簡潔な表現により研きがかかり、とても

お唱えし易くなっているのです。

逆にいえば、「乃至」がなければ、少々煩雑で、日本人なら読む気がしなく

なってしまうかも知れません。

ただし、『般若心経』の意味を理解し、その内容を瞑想の対象にする場合は、

略されているところを展開して、詳しく学び修めなければならないのです。

 

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> [2]:五蘊と十二処と十八界

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今回は「乃至」を取っ掛かりとして、いわゆる「無」のオンパレードともいう

べき「是故空中」以下「無智亦無得」までの内容を簡潔にご紹介いたします。

なおこの箇所では、「無」の字がなんと13回も繰り返されています

(サンスクリット文では18回を数えます)。

まず「(無)色、(無)受想行識」は五蘊といいます。五蘊(ごうん)とは

色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つであり、色蘊は自らの身体を含めて、

物質的なもの全般を意味し、いちいちを列挙すれば、眼・耳・鼻・舌・身の

前五根と色・声・香・味・触の前五境等となります。

識蘊は心であり、受蘊、想蘊、行蘊は、内界である心が、外界である色(物質的

なもの全般)と接触して生ずる心理的反応の三段階、あるいは代表的な心の

副次的作用を示したものなのです。

すなわち、「受」は六識を通して六根に接触し、まずそれを感受すること、

「想」は感受したものを表象すること、「行」は表象によって心が種々動機づけ

られて行為に向かうこと、と説明されます。

(櫻部建『阿含の仏教』文栄堂 2002, p.23ff.参照)

 

次の「(無)眼耳鼻舌身意、(無)色声香味触法」は、先にも言及した十二処であり、

ここでの意(意処、意根)には、十八界でいうところの六識も含まれています。

これら五蘊・十二処・十八界をまとめて三科(三つの分類法)といい、有為法・

無為法を含む一切法が摂し尽くされているのです。『般若心経』は、

「空の中には/空においては」(Cf.『中論』XVIII-5)何らの存在も無いことを、

五蘊・十二処・十八界をもって説いているのです。

※『中論』XVIII-5:業と煩悩の滅尽により解脱がある。業と煩悩は分別に基づいてある。

それら[諸分別]は、戯論に基づいて[ある]。しかるに、戯論は、空性が[定まる]時に

(空性において)、止滅する。

 

十八界よりもいっそうひろい範疇で「すべて」を言い表わした、釈尊による印象深い

説法を以下にご紹介いたします。

 

比丘たちよ、すべては燃えています。では、比丘たちよ、すべては燃えている

とは何か。眼は燃えています。もろもろの色は燃えています。眼識は燃えています。

眼触(眼識が眼根を通して色境に接触すること)は燃えています。

眼触を縁として生じる、楽、あるいは苦、あるいは非苦非楽という感受もまた

燃えています。何によって燃えているのか。貪の火によって、瞋の火によって、

痴の火によって燃えています。生まれによって、老いによって、死によって、

もろもろの憂いによって、もろもろの悩みによって燃えています。

耳は・・・・・鼻は・・・・・舌は・・・・・身は・・・・・意は・・・・・燃えています。このように私は説きます。

(『燃焼経』。片山一良『ブッダのことば パーリ仏典入門』p.214 参照)

 

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> [3]:十二縁起と四聖諦

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次いで「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽」で、「空中」に

おける無明(四諦に対する無知、根源的無知)、行(心身の潜勢力、内的衝動力)、

識(認識)、名色(心身の集合体、心身を含む認識対象)、六入(六処。眼・耳・

鼻・舌・身・意)、触(感官と対象との接触)、受(楽苦等の感受)、愛(渇愛)、

取(取著、執着)、有(生存、生きること)、生(出生)、老死の有支、すなわち

十二縁起の無、非存在が言及されます。

 

無明の縁によって諸の行があり、行の縁によって識があり、(・・・・・)生の縁に

よって老死があり、愁悲苦憂悩が生ずる。

無明の滅によって行の滅があり、行の滅によって識の滅があり、(・・・・・)この

ようにこの全ての苦の集合体(苦蘊)の滅がある。

(村上真完『仏教の考え方』p.64参照)

 

『般若心経』では、迷いにある人間の苦である生存はいかにして成り立つかという

流転門と、いかにして苦である生存を否定してさとりに至るかという還滅門のふたつの

見方から十二縁起が示されています。ただし、十二縁起で説明される苦である生存は

「空の中には」(空においては)なく、生死を繰り返す苦である生存が滅尽するという

ことも、また、ないと主張されるのです。

「(無)苦集滅道」は四聖諦であり、苦と集は迷いにある人間の生存の果(四苦八苦)

・因(渇愛)を示し、滅と道はさとりの果(苦の滅)・因(八聖道)を示しています。

したがって四聖諦とは、十二縁起を簡略化したかたちで、そして実践的な意味合いを

もって、より易しく説かれた教えなのです。

 

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> [4]:智と得

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「無智亦無得」の智と得については、「智は能達を挙げ、得は所証に名づく」

(『般若心経秘鍵』)とするのが妥当な解釈ではないでしょうか。

すなわち、智と得を対置させ、智を主体の能、得を客体の所である理に配す

(松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く』春秋社, 2006, p.168)という

ことです。そしてその内容については、道諦である八聖道につづく、正智と

正解脱であるとする説明(平川彰『般若心経の新解釈』p.171)、菩提と涅槃と

するもの(竹村牧男『般若心経を読みとく』p.212ff.)がある一方、智と得を

一対のものとせずに、得を非得を念頭において、心不相応行の「得」

(諸法の獲得作用。いいかえれば、属性等の取得)とするもの

(宮坂宥洪『般若心経の新世界』p.166)があります。

少し専門的な説明となってしまいましたが、「無智亦無得」は無のオンパレード

の総括としての句となっているのです。

 

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> [5]:智と得

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前回は「色即是空。空即是色」について、三つの解釈方法をご説明しました。

「是故空中」以下は、そこでの第二の解釈方法を述べたものであると、

私は考えています。

前回の第7号では、第二の解釈方法の例として「富士山」と「日本一の山」を

用いましたが、説明方法を工夫すれば、第一の解釈方法で用いた「こしひかり」

と「お米」でも理解可能なのです。「こしひかりはすなわち、これお米なり」

「お米はすなわち、これこしひかりなり」。おそらく、こしひかりの産地に

おいては、このふたつの言い方が正しい表現として認められるのではないでしょうか。

そこでは、こしひかりとお米には何ら差異がなく、お米とのみ呼ばれるのでしょうから。

では「こしひかりの産地」を「空」と入れ替え、「空においては」とすれば、

いかがでしょうか。空においては、色をはじめとする一切法と空とには何ら差異がなく、

すべてが空である、という直観以外には、何らいかなるものの存在も意識されない

ということになるのです。それが、前回の第一の解釈方法を含めて、この

「二つの解釈方法が『般若心経』として最も基本的な理解」であると記した根拠

なのです。

 

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> [6]:次回の予告とお願い

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次回は経末の真言について考えてみましょう。

その真言はどのような意味であるのか、なぜ真言が経末に説かれているのか等

について解説できればと願っています。

今回で第8回となりました。多くの方々に支援され、お追従のことばをいただき

ながらの稿を重ねることができました。

どうぞこれからもご愛読下さり、ご質問等を忌憚なくお寄せいただきますこと、

宜しくお願い申し上げます。

 

良海(2012/5/31)

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