お知らせ
2012年05月23日
忘れてはならないこと 「いろは」の教え
日本人なら、平安の頃より、だれでもが知っている「いろは」の四十七文字。しかしその作者や表記方法などに問題が多く、こんにちでは、その文句の意味の確定した説明すら、むつかしいとのこと。だからといって、決して「いろは」は既に無用の存在であり、このまま忘れ去られてよいものではありません。
ここでは長谷寶秀師(1869~1948)の『いろは乃話』(真言宗伝道団、大正三年)に拠りながら、「いろは」の読み方、その仏教的な意味について考えてみましょう。
読み方
「いろは」には、大きくいって、二つの読み方があります。そのひとつは「い ろ は に ほ へ と」一字ずつ区切って読みます。ただし、最後の「す」の字だけは濁って読み、それ以外はすべて清んで読みます(観応(1650-1710)の『補忘記』も同意見)。また書く場合は以下のように七行とし、初めの六行は七字ずつ、終わりの一行は五字となります。
以 呂 波 耳 本 ヘ 止
い ろ は に ほ へ と
千 利 奴 流 乎 和 加
ち り ぬ る を わ か
余 多 連 曽 津 祢 那
よ た れ そ つ ね な
良 牟 有 為 能 於 久
ら む う ゐ の お く
耶 万 計 不 己 衣 天
や ま け ふ こ え て
阿 佐 伎 喩 女 美 之
あ さ き ゆ め み し
恵 比 毛 勢 須
ゑ ひ も せ ず (『金光明最勝王経音義』)
※『金光明最勝王経音義』仏典の注釈書。著者不詳。1079年の識語がある。『金光明最勝王経』の漢字四三六字を標出し、それに字音注、意義注、万葉仮名による和訓を付す。和訓につけられた声点は平安時代のアクセントを反映する。巻頭には現存最古の「いろは歌」がある。(三省堂『大辞林』)
もう一つの読み方は、七五調の和歌(今様)のように読みます。すなわち、
いろはにほへど ちりぬるを
わがよたれぞ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみじ ゑひもせず
と四行に読みます。この場合は、ど、が、ぞ、じ、ずの五字は濁音となります。
これを漢字を交え、かつ現代仮名遣いで表記すれば、「色(いろ)は匂(にお)えど 散(ち)りぬるを我(わ)が世(よ)誰(たれ)ぞ 常(つね)ならん 有為(うい)の奥山(おくやま) 今日(きょう)越(こ)えて 浅(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ 酔(え)いもせず」となります。
※旺文社『中学校総合的研究国語』2006年、pp.378-379 参照
施身聞偈・無常偈
「いろは」は『涅槃経』聖行品の「諸行無常(しょぎょう・むじょう) 是生滅法(ぜ・しょうめっぽう/ぜ・しょうめつ・ほう) 生滅滅已(しょうめつ・めつ・い/しょうめつ・めっち) 寂滅為楽(じゃくめつ・いらく)」の四句が典拠とされます。(※いろはを『涅槃経』の四句にあてることを誤りとする意見もあります。諦忍律師『以呂波問弁』)
この四句は、『涅槃経』では、釈尊の前生の姿である雪山の一童子が、帝釈天が姿を変えた羅刹に自らの身を施してまで聞法を求めた偈(gatha, 韻文)という意味で「施身聞偈」と呼ばれますが、その内容は無常(anitya)を伝えるものであり、原始仏典(Mahaparinibbana-suttanta VI, 10. DN, Ⅱ.p.157 G; SN. vol.I, p.5 G; p.158 G, p.200; vol.II. p.193;Jataka, vol.I, p.392, etc.)にまでさかのぼります。
施身聞偈・無常偈は次のように訓読します。「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり 生と滅とを滅し已り、寂滅なるを楽となす」(望月良晃『大乗涅槃経入門』pp.202-203参照)。
標準的な現代語訳は以下の通りです。
「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のすやらいが安楽である」(中村元訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバナ経―』岩波文庫、pp.160-161)。
諸行無常、諸法無我
第一の句である「いろはにほへど ちりぬるを(色は匂えど 散りぬるを)」は、「散」るとあるので、花にこと寄せて、ものごとの移り変わり、無常のありさまが述べられていることが知られます。
はなの色のはかなさは、たとえば「花の色は うつりにけりな いだづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)ともうたわれている通りです。
また、この行の最後の「を」は「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ」(清原深養父)の「を」と同じく、逆接の接続助詞であり、事の裏返る意、あるいは事の案外に出る意を示し、現代表現での「行ったのに遇わなかった」とか、「見たのに見えなかった」などのように、「のに/が」にあたることばであるとのことです。
したがって「いろはにほへど ちりぬるを」は、いまはさかりと咲きほこるこの花のすがた、間もなく散ることを知らないわけではないが、いつまでも美しく眺めていたいとは、ああなんと愚かな、悲しいことよと、余情を含めた表現と解釈されます。
なお「にほへど」の「にほふ」は、その姿・色が視覚的に映えるという意味であり、決して臭覚的な意味ではないことを知り、おどろいています。臭覚的な意味を表す場合は「香(か)ににほふ」と表現されるのですって。
「わがよたれぞ つねならむ(我が世誰ぞ 常ならん)」は、諸行無常の意を端的に述べています。
すなわち、上の句の「を」の意味する、常住であれ(いつまでも美しく眺めていたい)との迷いを転じ、すべては無常であるとの真実の開悟へと導く句となっているのです。
この句の「わがよ」とは、われも無常なり、わが世も常ならずとの二つの意味を兼ね、そのうちの「わが世」とは、わが地位、名誉、財産といった自らの所有を指すものとも解釈されます。したがって、この句では、わが身はもちろん、われの所有もまた、うつろい変化するもの、生(発生)・住(維持存続)・異(変化・老化)・滅(無常性)のさけがたきものであること、あるいは無常性につかぬかれたものであることが語られているのです。
以上「いろは」のはじめの二句は、施身聞偈・無常偈の「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり/法なればなり」の意を述べ、いわゆる三法印であるところの「諸行無常」「諸法無我」を説いているのです。
涅槃寂静
次に「うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)」の一行は「生滅滅已」(生と滅とを滅し已り/滅し已りて)の句に当たります。
有為(うい)とは、仏教用語で、さまざまな原因と条件等によって結果として作りなされたもの、因と縁の和合によってつくりだされた(為作、造作、有作の)諸現象(中村元『佛教語大辞典』縮刷版)という意味であり、すなわち縁起(因縁生起)したもの、したがって無常なるものをいいます。(※有為転変の用例は日本撰述の文献に限られるようです。)
いま私たちの生きる、この有為の境遇は、さまざまな意味で奥山(おく深く、けわしく、あやういところ)にたとえられます。たとえば、奥山は「毒樹(どくじゅ)荊刺(けいきょく)の繁茂するところ」、この有為の境遇は「貪(とん)瞋(じん)邪見(じゃけん)のあらあらしき煩悩のはびこるところ」。
奥山は「樹木しげって昼なお暗いところ」、私たちは「無明(むみょう)の惑に覆われて、智慧の光明を失」える存在。奥山は「人を害する猛獣毒虫の居るところ」、この三界は概して「火難・水難、剣難・盗難など種々の災害の集まるところ」云々と。
私たちが迷いにあり、しかも喜び、いかり、悲しみ、楽しみながら生死し、執着の対象とする、この生存のすべてが無常であり、無我であることを明らかに知って、有為に対する愛着・束縛を離れる。それが「けふこえて」とうたわれます。「けふ」とは「いま・ここ」の意であり、「て」は「滅し已りて」の「て」であり、「滅し已れば」と同じく、事を成し終えて、次に移る意を表しています。さらには「けう」は明日と延さぬ意図があり、すみやかに解脱に達するよう修行につとめる表現であるとも理解できるのです。
涅槃―解脱と菩提―
有為生死の迷いの境遇を超えたところに、涅槃寂静、完全なやすらぎが現成します。「あさきゆめみじ ゑひもせず(浅き夢見じ 酔いもせず)」は「寂滅為楽」の句にあたります。「涅槃」とは、サンスクリット語でニルバーナ、パーリ語でニッバーナといいます。その語源は「吹き消すこと」あるいは「風が燃えている火を吹き消した状態」の意味と解釈され、悟りと修行によって煩悩を残らずなくしてしまうことをいいます(望月良晃、前掲書参照)。
「夢」と「酔い」とは、どのように解釈されるでしょうか。弘法大師のことばには「哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」(『般若心経秘鍵』)とあるように、ここでは、迷いの長夜(じょうや)にみる夢、無明(むみょう)の酒に酔うことと理解しておきます。
「あさき(浅き)」とは、「浅はかな」ということです。迷いの生死にある限り、いいかえれば、無明に心まどわされ、夢のような現実からめざめない限り、この生死でのできごとはきわめて大切なもの、価値の有るものであり、執着すべき対象としてあらわれますが、悟れる者からすれば、それは取るに足らない、価値のないものであると知られるということを意図しての表現なのです。
したがって「うゐのおくやま けふこえて」云々は、「生死の迷いを脱し、諸行無常・諸法無我の真実が知られたからには、生死の浅はかな夢からさめて、再び無明の酒に酔うことはない」との意であると理解したいと考えます。この二句は三法印の「涅槃寂静」を説いているのです。
「ゆめみじ」は「ゆみみし」と読むとの意見もあるのですが、ここでは「あさきゆめみじ ゑひもせず」と、「之」と「須」を濁音と読み、「不夢」「不酔」と理解しています。
大切な理由があるのです。涅槃は寂静の理(ことわり、道理)ではありますが、「ゆめみじ」で、執着をすべて離れて、完全なやすらぎに達したこと、すなわち解脱をうたい、「ゑひもせず」では、無明痴暗を離れた、菩提の智を証することを語るものとして解釈したいからなのです。
すなわち涅槃は寂静、静止的なものばかりではなく、活動的な局面もそなえているからなのです。
無常感と無常観
私たち日本人は、ものごとの移り変わりの中に何らかの意味・メッセージを感じ取る繊細な感性を有していたのではないでしょうか。
そして、うつろい、もののあわれといった、そのナイーブな無常感を鍛え上げ、「いろは」に凝縮される無常観にまで仕上げ、あるがままに、すべてを知り得る智の体得へと導いたのは、仏教の思想であったのです。
春夏秋冬、四季の変化、大小さまざまな自然の姿を、私はいまとてもなつかしく思い出しています。
現在の私たちの生活は無常性を忘れてしまっているかのようです。あえていえば、私たちは意識する、意識しないにかかわらず、恒常的なもの・絶対的なものを求めていたのではないでしょうか。
プルトニウム、セシウム137などの原発汚染物質、これだって無常なはず。(最近、ダイオキシンの話題を聞かなくなったが、どうなっているのだろう。)
しかし、問題解決には何十年かかるのだろうか。おそらく私の生きている限りは、原発汚染の問題は私たちの念頭から離れないだろう。
私は、私たちが人間の一生の時間を費やしても解決不可能で、もとの状態には返れないほどの「恒常的なもの」を造り上げてしまったことを深く悲しんでいる。
今晩のニュースで、東京電力福島第1原発1号機の格納容器内の水位が予想に反して少なく、40センチほどしか水がたまっていないとの解析結果が出たのですって。
いま現在もその問題解決にあたってらっしゃる多くの方々に感謝の意を表したい。私も何らかの援助をしなければならない。
希望は捨てない。私たちは無常を生きなければならないのですから。
(2012/5/22 良海)