お知らせ
2014年07月03日
第十九回「坐禅・法話会」を開催致しました
去る6月30日、萬徳院釈迦寺船橋中央に於いて、第19回座禅法話会が開催されました。今回は「御来光(御来迎)」という題材で、田久保明賢師と髙田良海師の御二方に、自然現象としての御来光と、仏教における御来光についてお話しいただきました。
第一座 田久保明賢師 「見方で変わる御来光(御来迎)」
皆様は自然現象としての御来光(御来迎)を御存じでしょうか。山の頂上付近で、雲や霧に映る自分の影から光の輪があらわれる現象のことをいいます。これが、仏様の後光のようであるとしてこの名がつけられました。何も知らずにこの現象を見ればまさに仏様に出会ったような感動があるでしょう。しかし、ただの自然現象であり、条件が整えばだれでも見れるとおもってこの光の輪を見たら、感動はうすれてしまうでしょう。同じ物事でも見方一つで変わります。
また、御来光には日の出の意味もあります。日の出日の入りの際には空が赤く染まるものです。なぜそうなるかといえば、大気中にあるチリや埃に青い波長の光がぶつかって赤い波長の光しか届かないからです。真っ赤になったらそれだけ大気中にチリや埃があるということです。しかし、これを空気が汚れている証拠だと捉えるのではなく、チリや埃のおかげで美しい朝焼け、夕焼けに出会える。そのように捉えて欲しいとおもいます。物の見方を変えればどんなものでも役に立ちます。
「雨奇晴好」晴れでも雨でもどちらでも趣きがある、という禅語です。雨だからつまらない、ではなく、雨もいいねという御心をどうかお持ちになってください。良いように物事を捉える御心を大事にしてくださいませ。
第二座 髙田良海師 「現代のご来迎」
生老病死、仏教では死を苦しみのひとつに数えます。そして死の苦しみとは、「断末摩」というような身体的苦痛よりも、家族・朋友とのわかれ、自ら自身の喪失である、嘆き悲しみという精神的苦痛の方が大きいようです。自らの死にのぞむ方策として、日頃からの信仰の養いが大事であるといえます。かつて日本人は、臨終にさいしての阿弥陀如来によるご来迎を信じていました。現代は、そのご来迎に代わるものとして、「親しい死者」であるすでに亡くなった家族や知り合いによるお迎えを経験するという事例が多く報告されるようになりました。阿弥陀さまによるお迎えがなければ、極楽浄土には往けないのでしょうか。私は次のように考えます。お迎えにきてくださった家族や知り合いなどの「親しい死者」の姿は、阿弥陀さまの化身なのではないでしょうか。阿弥陀さまは、私たちがびっくりしないように、私たちの近しいお方に姿を変えて、お迎えにきてくださっているのであると、私には思えるのです。亡きお方のお姿を通して、仏さまの存在を知る。そして安心して親しきお方とともに暮らすべく、新たなるいのちへと導かれるのです。現代の私たちにとっても、阿弥陀さまの「ご来迎」は確実に訪れているのです。本日はご来迎の意義について考えてみました。
次回の開催は7月30日(水)です。題材は「灯明」です。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。